前々から千切れそうだった、右足の便サンが、今日ついに千切れてしまった。
俺はこの便サンが大好きだった。
中学生の頃、マキシマムザホルモンをよく聞いていた俺は、なんとなく彼らについてもっと知りたいと思い、インターネットでぽちぽちやっていた。
すると、何かのインタビュー記事みたいなもので、亮くんが一年中便サンを履いているということを知った。俺はカッコいい、と思った。
当時、学校でカッコいい靴とされていたのは、NIKEのスニーカーとか、converseのスニーカーで、便所サンダルは、"カッコいい"の対義語にあたるような靴だ
だから、そんないわゆる"ダサい"、便サンを一年中履いているというのは、どこか反抗的で革命的でカッコイイ、と当時の俺は思ったのだ。
"便サン"という名前も気に入っていた。
"便所"という汚くて薄暗いようなイメージと、"サンダル"というポップなイメージが組み合わさってできる"便サン"という言葉。
自分の中にじわぁっと染み込んでいくような感覚がした。
とはいえ、中学、高校は部活で忙しく、便サンを履く暇もなかった。
だから、初めて便サンを買ったのは大学に入ってからだ。亮くんはVicの便サンが良いと言っていたので、俺もビックの便サンを買った。中学の時から時間が経ったとはいえ、精神的には中学生の頃と何も変わっていなかった。
便サンで学校に通うようになるが、新品の便サンは硬くて履き心地が悪かった。それでも、なんとなくカッコいいと思って履き続けていた。
便サンを履いている自分は、なんとなくパンクでロックで、なんとなくカッコいいと自惚れていた。
周りに便サンを履いている人は誰もいなかったし、たまに友達から、お前変な靴履いてんなー、って言われるのが気持ちよかった。
「俺は人と違う」
「俺はみんなと違う感性を持っている」
便サンを履いているだけで、真っ白な色の中で、俺だけは赤色、みたいな偏ったナルシシズムに溺れたかったんだ。
2年生にあがっても、俺は便サンを履き続けていた。
しかし
ある日、食堂で新入生が、俺と同じ便サンを履いているのを見つけた。
そして、その日から、俺は全く便サンを履かなくなった。
今まで、他人と差別化してくれるアイテムだった便サン。同じ便サンを履いているやつが他にもいるというのは、俺にとって恐ろしい事だった。
同じ感性を持っている、それは俺が2人いるという事で、この世界から俺がいなくなろうがどうでも良い、と同義なのだ。
その時くらいから、東京の下北沢などでも便サンが流行っていることを知り、あまのじゃくな俺は、ますます便サンから遠ざかった。
そういうことがあり、日本で履くことのなくなった便サンだが、海外では重宝した。
日本ではかぶるやつがいるけれど、かぶることのないであろう海外では、ただの便利なサンダルだった。
タイに行くと、暑いし靴なんか履いてられないので、いつもこの便サンを履いていった。
オーストラリアでも大活躍してくれた。
大きめのジーンズやパンツに便サンを合わせると、シルエット的にも良かった。
買ってから3年以上立っていたし、ゴムも柔らかくなって、自分の足にピッタリとフィットして履き心地は最高だった。
クラブに行くときも、大抵はサンダルだと入場できないのだが、この便サンだとすんなり入れた。
街中を歩いていても、知らない女の子から「その靴めちゃくちゃかっこいいねー!」なんて言われるし、友達もみんなこの便所サンダルを「that's cool」なんて言って欲しがっていた。
海外で便サンが褒められるとは思ってもいなかった。
そんなに褒められれば当然俺は調子にのるし、いつもに増して、ガシガシ履きまくった。オーストラリアで撮ったどの写真を見ても、おれは便サンを履いている。
そんなこんなで、オーストラリアで便サンを履きまくって履きまくって、一年半、ついに右足が千切れたんだ。
便サンの右足が千切れてから間もなく、家から電話があり、急用だから日本に帰ってこい、と親父からだった。
コロナが流行っていたので、一度オーストラリアから出れば、もう当分は戻れなかった。
便サンは、まるで俺のオーストラリア生活を見守っていたかのように、息を引き取ったんだ。
俺は千切れた便サンの写真だけを撮って、ゴミ箱に捨てた。
思えば、お前と出会ってから4年半、一緒に色んなところに行った
色んなことがあった
痛い目もみた
便サンはいつでも俺にとってパンクな精神やロックな精神そのものだった。
日本に帰ってきて、下北沢に行く機会あった。便サンを履いているやつを3人ほど見かけた。
みんな韓国風な髪型をして、同じようなパンツを履いていた。
彼らはどんな気持ちで便サンを買ったのだろう。
やはり、日本ではもう便サンを履くことは無いのかもしれないが、それは分からないし、そんなことどうでもいい事なのかもしれない。