シナプス全細胞の日記

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”サザエの壺焼き”は”幸せ”の概念そのものなのかもしれないという話

 今朝、昔仲の良かった友達が急に家に訪ねてきた。朝の8:30で、俺はめちゃくちゃ眠かった。

 

就職が決まったので、挨拶をして回っているそうだ。なんで就職をしたからって挨拶をして回るのか俺にはよくわからないが、社会人とやらには必要なことらしい。昔仲のよかった友達に久しぶりにあっても、盛り上がる会話といえば昔の思い出だけだが、それはそれでいいものである。昔のことを話し合ってしまえば、もうこれといって喋る話題なんてなく、俺たちはくだらないことをダラダラと喋った。

 

 

その夜、俺は彼をバーベキューに誘った。小さい七輪に炭を入れて焼くだけの簡単なものだけれども。そのために、昼間海に潜って、サザエとアワビをたくさん取ってきた。

 

 夜の9:30頃から、バーベキューを始めた。まずは、サザエを七輪の上に置いた。数分もすると、サザエのふたが浮かんできて、蓋と貝殻の隙間からブクブクと泡が出てきた。そこの隙間に醤油を少し垂らして、また何分か置いておく。ふたが簡単に取れるくらい、十分に火が通ったら、細長い針金を使って、サザエの身を殻からクリンと取り出す。渦巻きみたいな形をした身が取り出せたら、そこにバターを溶かして、さらに醤油を少しかける。そして、その熱々の身を一気に口に入れる。 ゆっくりと噛んで行くと、濃厚な肝の苦味とプリンプリンの貝柱の甘さが混じり合う。バターのまろやかさ、醤油の香りとしょっぱさがたまらない。数十秒間、時を忘れて、悩みを忘れて、目を閉じ、ゆっくりと咀嚼する。旨味の中に、自分が溶けていくようで、その数十秒間はとても幸せだ、と思った。口の中で噛んでいるうちは、これが幸せだとか、そんなことは考えられない、ただただ、美味いという感情に脳が支配される。いや、実際には美味いとも思わない、脳が、ただ、なんらかの、凄まじい快楽とやらに支配されているのだと気づく。十分にサザエが細かくなると、ゆっくりと飲み込んで、ビールを一気に飲み干した。海の香りが残る口から胃袋にかけての器官を、冷たいビールがしゅわしゅわと通り抜けていくのを感じながら、俺は余韻を楽しんだ。

 

 

「これ、やばくね?」俺は友達にそういうと、彼はまだ、目を閉じて、ゆっくりと何かを噛み締めていた。それは、サザエを噛み締めるのと同時に、幸せというものもかみしめていたのかもしれない、なんて臭いことを思ったりもしたが、幸せっていうのはきっともっと複雑なものなのかもしれない。